産業医学センター
過労死・過労自殺
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過労死とは
過労死相談の事例をみますと今まで働いていた方が急に亡くなる方が多く、その意味では「突然死」「急性死」の例が多いといえます。「突然死」は、医学上の定義があって「予測しない24時間以内の死」のことを指しています。急性死も、同様の意味で使われています。では何故「過労死」という言葉が生まれたのでしょうか。「過労死」を考えるとき、予防・対策を考えるとそのちがいがよくわかります。突然死の事例は、その定義からもわかるように、亡くなってみないと、そうであるかはわからない。突然死でも約半数が前兆―きざし―があると言われますが、その訴えは、どれも多くの病気にもありうるもので、その一人ひとりに、「突然死」かもしれないと、24時間以内の死の注意を医師がすることは現実的に無理です。 一方、過労死となると、過労となる労働・生活の現実があれば、それをつかみ、死に至らないように手を打つことができます。まさに原因を中心に考え予防を願った概念であり、現状ではけっして医学的病名ではない。日常生活の中で、こうした不幸な事態を予測し、取り組むことを訴えている社会的・社会医学的な用語です。だからこそ外国にもそのまま「karoshi」と紹介されたのです。
「過労死」は、1982年、大阪でこうした事例をコツコツ取り上げてきた田尻俊一郎医師(西淀病院)、細川汀元京都府立大教授と東京の上畑鉄之丞博士(国立公衆衛生院)によって名付けられました。彼らの定義は、「過重な労働負担が誘因になり、高血圧や動脈硬化などもともとあった基礎疾患を悪化させ、脳出血・くも膜下出血、脳梗塞などの脳血管疾患が心筋梗塞などの虚血性心疾患、急性心不全を急性発症させ、永久的労働不能や死にいたらせた状態」とされています。
私どもが、たくさんの病気の人がいる中で、「過労死」に取り組むのはどうしてでしょか。それは、働き盛りの世代が働き続ける中で中で死亡したにもかかわらず補償されないようでは、通常の病院・診療所に通う病気―潰瘍や肝炎、そして頚肩腕障害、腰痛症…―に至っては、軽視・無視されてしまうことになります。つまり、「過労死」が社会的に救済せれてこそ、他の多くの病気も正しく「治って」いくと言えるからです一部には、自ら働きすぎて亡くなったのだから補償は不要、という意見もあります。しかし、大半は、働かされすぎてもいますし、見てみぬふりもされています。職場での有効な予防策が取られていないという意味では「労災・公務災害」と考えても矛盾しません。しかもその補償は最も大変な目にあっている遺族、家族に支払われるのですからもっと容易に適用されて良いと思います。
以上述べたように、働き過ぎ、働かされ過ぎによって心身が疲れ、疲労が蓄積し、生命の糸が切れるほどの障害が生じることを「過労死」と呼んだわけで、それは必ずしも心臓や脳の病気ではありません。おおまかに分けてみますと。
- 脳、心疾患の急激な発症、死、後遺症
- 休養・治療が充分でないための病気の進行、悪化―かぜ→肺炎、消化性潰瘍→吐血
- ストレスの増大による心の病気、自殺
- 労働の厳しさ、内容による酒、たばこの増加、食生活の悪化に伴う諸疾患の進展
など、広範囲です。
実際の相談の中でも、きちんと対処していれば、十分防げた、船員の肺炎死亡の例や、商品開発の担当者としての苦悩のなか、自殺した労働者などがあげられます。また、営業成績を挙げるがために、毎晩のように接客に努め、あるいは、支店長として単身赴任し、その地の名士としての付き合いが、酒や外食、コーヒー、たばこを増加させ、ついに死亡するようになった事例も見られます。酒、たばこが多いと、とたんに労災認定せず、「個人の責任」とする行政の態度も、こうした背景を見ない立場の一つです。
世界中でわが国に特に多発している、この社会病が「過労死」といえましょう。詳しくは「過労死しない、させない本(農文協)をまずはご覧下さい。
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過労自殺とは
- 数値的特徴
警察庁生活局統計
- 1990年代に入り2万人台であった自殺が、後半から急増し、3万人を超し3万3千人程にまで増加している。
- 戦後の自殺数の推移は、失業率の推移と全くというほど波が一致している。
- 1983年から1996年での「勤務問題が原因」は、1200件台なのに、1998年以降は、1900人近くに急増し、40代から60代は、「病苦」より多く原因のトップである。
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認定数
- 労災 :20(1983年~1999年の累計) 注)申請数は201件
- 国公務:19(1989年~1999年の累計)
- 地公務:29(1979年~1999年の累計)
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全国過労死相談ネット集計
- 相談累計約400件(1988年~1999年11月)
- 内容の特徴
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『広汎な発生』
業種・職種を問わず、職階・職能も全般的に発生している
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『過重労働』が基本原因
「長時間労働」「休日労働」「深夜労働」「劣悪な職場環境」下による『肉体的負荷』と「重い責任」「過重なノルマ」「達成困難な目標」等による『精神的負荷』が最大の原因である。
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『ジレンマ』も原因
右だと言われて頑張ると左だと言われたり、会社の指示に従うと家族・家庭がうまくいかないし、家族を思ってしまうと会社の方針に逆らうことになる。こうした状況に耐えられず
- 『出口の見えない労働・生活』も要因
一体いつまで続くのか、という気分になる夜勤や単身赴任、午前様労働等が目途、見通しの無い厳しい労働・生活の継続の中未来に展望を見出せず自殺している。
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『うつ病に罹患している人が多い』
精神科受診の比率は少ないが、日記等の諸資料を検討すると実際には多くが「うつ病」に陥っていたと考えられる。
- 『加害者が被害者を責めている』
集団が、過重な課題と責任を背負って働いている中、当事者は、「私には出来ない、無理」と訴えるが、聞き入れられず、「夜勤頑張れば何とか出来るはず」とか「君も集団を構成する一人」と説得される。自分の意見や弱音を出さず几帳面に働き続けるが、仲々うまくいかなかったりする中、ある事態に直面(ミスや遅れ)し悩むが、その集団又は上司が守ってくれず、「我々が被った損害は君のせい」と逆にその個人を責めるという状況になり、苦しんで自殺しているケ-スが多い。
- 『闇に葬られる過労自殺』
『過労死』以上に会社が隠す。個人のせいにする傾向が強い。特に、その性格や「うつ状態」に陥った後の行動や言動に責任を負わせる傾向が目立つ。秘密にされたりすることにより、過労自殺を産んだ社会的要因の検討が遅れ、予防への対策がまだなされていない。
- 数値的特徴
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相談事例集計
Ⅰ)宮城県過労死 110番・相談 取り組み事例 (1988年6月から2001年4月末)
A.労災申請例の推移
- 労災認定例
- 設計技師
- 運送会社運転手
- 食品会社冷蔵庫担当
- 建設関係部長
- コンピュータープログラマー: '99.11.16 仙台労働基準監督署
:'00.10.24 仙台簡裁で調停成立
- 裁判
- 電工ショ-ル-ム主任・・'94.10.24 仙台地裁にて勝訴(11.8 確定)
- JR職員('89 年死亡) ・・'97.2.25仙台地裁にて勝訴(3.12 確定)
・・通勤災害 - 大手銀行員(S58年死亡例、くも膜下出血)・・高裁にて因果関係が争点
- 業務外確定
- 女子高音楽教師(心筋梗塞死 49才)
- タクシ-運転手(路上、心疾患死 42才)
- トラック会社配送係(くも膜下出血死 47才)
- 造船会社営業課長(出張中ホテル内、心疾患死 49才) 再審査請求の棄却
- ポンプサ-ビス会社所長(くも膜下出血死)審査請求の棄却
- ダンプ運転手(急性心不全 56才)再審査請求の棄却
- 建設関係(脳出血 51才)再審査請求の棄却
B.申請中
- 公務員: 教員(被災時36才) 過労自殺・・全国中学校バドミントン大会とその準備が肉体的・精神的に過重であった ('98.8.24被災)'00.10.11 公務災害申請
C.最近の相談事例
- 報道下請け: 整備士(51才) 心筋梗塞で死亡・・長時間の拘束・緊張
- 酒販売業: 営業担当(33才) 過重労働の末、うつ病になり入院中に自殺未遂
- 広告代理店: 技術職(35才) AM 9時からAM 2時の労働で超勤手当てなし
- 公務員: 事務職(20代) 職場全体がPM 9時半頃まで労働し、超勤手当てなし
D.過労死 110番・相談 累計252件
- 労災認定例
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過労死・過労自殺事例
事例1 建設関係部長(被災当時41歳) 心臓性突然死
- 96年9月16日AM6時妻が起こしに行ったところ返事なし。救急車で仙台市立病院へ運ばれるが、すでに死亡。解剖し、上記死因。
- 2年前からリストラ合理化、関連企業の整理、業者への代金の先送りなどを被災者が中心に実施。本社との対応などでAM9~10時に家を出、帰宅は毎日AM0~2時。職場では「過労死するのではないか」と心配しても、被災者は「まだ若い、もう少し頑張らなければ」と走りまわっていた。
- 96年10月28日会社も仕事が原因と認め、仙台労働基準監督署に労災申請するも、会社も倒産。工賃未払いの相談でこの件を知り、坂総合病院のケースワーカーが被災者の妻の相談にのる。
- 第18回過労死・働かされ過ぎ・働き過ぎ相談へ
仙台市立病院の医師へ、監督署からの意見書には「死因と業務の関係については、少なくとも否定できない旨」依頼した(→「過労が引き金となり不整脈が誘発され突然死した可能性も否定できない」となっていた)。また、坂総合病院循環器科も医師意見書作成。ケースワーカー、奥さん、3人の子供さんとで書類ができる度、監督署に足を運んだ。 - 98年5月末仙台労働基準監督署が労災認定
事例2 コンピュータープログラマー(被災当時26歳) 自殺
- コンピューターソフト会社(本社東京)の仙台支社に勤務
- 97年3月から本社に長期出張し、深夜勤務や休日出勤が続く
労働時間3月230時間・4月345時間・5月380時間
洗濯や食事をする時間もなく辞めたかったが、『納期に遅れると何億円もの損害が出る』と言われ辞められなかった。過重労働からうつ状態となる(精神科の受診なかったが後に日記帖を精神科医が検討しうつ病であったことと診断) - 5月28日上司が宮城に連れ帰る途中、電柱に登り自殺
- 98年5月仙台労働基準監督署に労災申請
- 坂総合病院精神科医が医師意見書作成
- 99年11月16日仙台労働基準監督署が労災認定
- 00年10月24日仙台簡易裁判所にて調停成立(損害賠償請求)
事例3 ダンプ運転手(被災当時56歳) 急性心不全
- 93年仙台空港滑走路の拡張工事に従事し、納期間近くのためAM6時~PM5時、PM8時~AM5時の二つのシフトダンプで後ろ向きに上り、生コン注入機に近づく作業が主。女子見習い運転手の指導も重なる。これがかなり神経を使う。高血圧、狭心症で通院中(発症当日も妻が薬をいただいて来ただけ)
- 93年9月14日10時間の日勤後1時間の仮眠だけで出勤し、15日のAM0時30分夜勤の最中に発症し死亡
- 93年11月25日全日自労が第12回過労死・働かされ過ぎ・働き過ぎ相談へ
- 94年3月1日仙台労働基準監督署に労災申請
水戸部医師(長町病院循環器科)が医師意見書作成
監督署、局労災課長交渉 - 所属組合が94年11月22日「支援の会」結成し、署名活動開始
- 95年6月20日仙台労働基準監督署にて業務外決定
- 95年11月21日宮城労働者災害補償審査官が請求を棄却
- 98年2月12日中央労働者災害補償審査会が再審査請求を棄却
事例4 公立中学校教師(被災当時36歳) 自殺
- 98年8月24日午前6時全国中学校バドミントン大会(仙台)開催中、ホテル(事務局が置かれていて担当教諭四人と逗留)で自殺(縊頚状態で窒息死)。
- 英語担当、学級担任、バドミントン部顧問、生徒会担当に加え98年から免許外の社会科も担当。更に市のバドミントン副委員長として全国大会事務局総務部長に。亡くなる前一ヶ月間は家族と一緒に夕食をとることもなく、帰宅はPM9時以降夏休みも県大会、全国大会の準備で忙しく、夜遅く朝もゆっくりできず。
- 7月20日~8月23日までの週労働時間は75時間、91時間、96時間、65.5時間、90時間その他に自宅でも仕事をしていてかなりの過重労働。
- 全国中学校バドミントン大会が宮城で開催されるのは20年に1度であり、絶対失敗は許されないといった精神的負担下にあった。
- 事例は「すべて全力投球の先生」「計画緻密で実効力あり」「生徒の心をつかみ誠実」と言われていた。
- 死亡前日夜被災者から妻(中学校教師)へ電話があり。内容は、「かなり疲れている。運営がうまくいかない。レセプションもうまくいかなかった」と。
- 98年9月中旬妻が公務災害申請所類を請求
- 「宮城過労死弁護団の弁護士、医師に相談。「過労死110番」当日相談。
- 2000年9月29日「公務災害認定を実現させる会」結成
- 2000年10月11日公務災害申請。